20110430

東京チームキックオフその2(20110427)

2011年4月27日(水)の続き

東京チームは、渡邉英徳先生以下、院生2名と学部生3名で構成されます。27日キックオフは、一人一人がヒロシマ・アーカイブへの案を発表し、それに対して参加者がコメントする形で進められました。私は発表のビデオ収録とコメントに夢中で、写真撮影を忘れてしまいました。おまけに当のビデオカメラは、今女学院の生徒の手元にわたっていますので、写真なしでの感想になります。

■「祈り」の姿勢がうれしい
高田さんの発表には、「祈り」「奉納」などの言葉が出てきました。人類史上の「人災」(東日本大震災は基本的に天災であるのに対し、原爆の出来事は100%人災です!)の記憶を、PTSDを抱えながらも語ってくださる被爆者の意志を、学生さんたちは真摯に受け止めておられました。
この姿勢の醸成は、今回学生さんたち自身が被災者となったことと無関係ではないと思います。
ヒロシマ・アーカイブが、「祈り」の空間として構成されることを願います。

■被爆者への「思いやり」がうれしい
意見が分かれましたが、各証言への「ありがとうボタン」を提案された原田さんの優しさに感謝。広島女学院でも、このアイデアについて生徒たちが議論していました。峻厳な祈りの空間の中にも、きっと彼女の「思いやり」のテイストが活かされるでしょう。

■美的センスがうれしい
ツイッターからのメッセージが元安川の川面を流れる「言葉の灯籠流し」のアイデアは秀逸。8月6日の元安川の灯籠流しの光景に魅了されたという坪山さんが提案したものですが、技術的に可能であれば、実現してほしいものです。
また、佐藤さんは、メッセージを鳩の形にして表示する案を出されました。この案は子どもたちに受けるでしょう。「仕掛けが語りすぎることの功罪」(@渡邉先生)をめぐって攻防があるでしょうが、良い作品へ収斂していくことを望みます。

■「同時代人への意識の強さ」がうれしい
時間が足りなくてうかがえなかった山田さんの発表も含め、ツイッターやフェイスブックとの連携を強く意識した発表が多かったです。ヒロシマの実相を伝えることで、私たちの同時代の人たちの意見や感想を吸い上げ、新たなコミュニティを形成することを、皆さん強く意識しておられました。この意識こそがアーカイブ理論のキモでしょう。

■「風通しの良さ」がうれしい
5名の学生さんたちは、渡邉先生や他の発表者に対して、少しも遠慮することなく批判的意見を述べておられました。
<少しでも良いものを創造するために、相手が誰であれ、忌憚なき意見を述べる。>
渡邊先生の白熱教室を支配していたのは、そういったエートスでした。とても風通しが良いのです。
このエートスをもたらしているのは、師としてよりもライバルとして学生たちに接する渡邉先生のガチンコ教師ぶりです。実際、批判に対する渡邉先生の再批判は、全く容赦のないものです。ご本人も私に言っておられましたが、今後彼は、さらに「鬼のように」なっていくでしょう。
学生さんたちの面の皮はさらにぶ厚くなるでしょう。

■上田さんとの出会いに感謝
この日、八王子原爆被爆者の会「八六九会(はちろくかい)」事務局長の上田紘治さんが集まりに参加しておられました。上田さんとの出会いを通して、東京の被爆者組織の方々が、穏やかに着実に活動を展開しておられることがよくわかりました。広島在住の被爆者の声だけではなく、他府県や海外の被爆者の声にも耳を傾けていく必要があることを、痛感しました。
今後、ヒロシマ・アーカイブの被爆証言の中で、八六九会の皆さんの証言が大きなウェイトを占めていくことは間違いないでしょう。上田さんとの間をとりもってくださったANT-Hiroshimaの渡部朋子さんに感謝です。

さて、私がこのブログに投稿するのはこれが最後となります。ヒロシマ・アーカイブがどんな形で私たちの前に姿を現すか、胸を躍らせて待つことにします。もちろん、待つだけでなく、被爆者証言の収録を中心に、取材活動を続けます。
凛とした強度をもった祈りの空間から、生々しい痛みや平和を希求する優しさがほとばしり出る・・・ヒロシマ・アーカイブが、そんな空間になってほしいと思います。

なお、広島女学院生の今後の取材の様子は、 http://jogakuin.mapping.jp/
の方へアップしていきますので、どうぞこちらも併せてご覧ください。

首都大チームの今後のDangerous DaysにMay the Force be with you! (矢野一郎)

20110429

制作チームキックオフ+アイデアシート発表

去る4/27,首都大学東京日野キャンパス,ネットワークデザインスタジオ(渡邉英徳研)にて,首都大制作チームのキックオフと,各人のアイデアシートの発表がおこなわれました.広島女学院高校の矢野一郎先生八王子市原爆被爆者の会(八六九会)事務局長の上田紘治さんにもご参加いただき,活発な議論が展開されました.

下記に学生各自のアイデアシートを掲載します.当日は一人数十分掛けて発表+ディスカッションをおこないました.昨年のNagasaki Archiveの完成度がたかく,ツバルプロジェクト以来の蓄積で,デジタル地球儀上に顔写真と証言,当時の写真を重層表示する手法が枯れたものになってきているので,学生たちの提案はインターフェイスデザインやネットコミュニティ形成に主軸を据えたものになっています.

各自,これまでの作品制作や講義受講の経験を踏まえた誠実な提案で,参加者からも好評でした.各々を組み合わせることで充実したコンテンツになることは間違いありません.あとで文末に総評を述べますが,まずは全員のアイデアシートをご覧ください.クリックでPDFを閲覧できます.






さて,当日の終盤に総評として述べたことでもありますが,今回のプロジェクトで扱う題材を考えると「仕掛けが語りすぎること」の功罪に,つよく意識的であらねばなりません.つまり,我々の真のミッションは被爆の実相を伝えることであり,すべてのクリエイティブはそちらに向けて発揮されなくてはならない,ということです.ユーザをもてなすためのギミックは,慎重に選別して実装したいと考えています.

昨年のNagasaki Archiveも,公開に向けてメンバー間での強いぶつかり合いがありました.結果,とことん作為が排除されたストイックなインターフェイスに収斂したことが,高い評価を得た理由のひとつかと思っています.気の利いたインターフェイス,工夫の凝らされたギミックなど,たくさんのアイデアが生まれたのですが,最終的には極端に絞りこまれたものになっています.ユーザフレンドリーであることと,作品として強度を持っていることは同義ではありません.

まだ4月,残り数ヶ月を掛けて,案はどんどん変容していきます.制作チームメンバーのクリエイティビティに期待です.(渡邉英徳)

20110428

東京チーム・キックオフその1(20110427)

2011年4月27日(水)

待ちに待った東京チームキックオフの日です。

強風のため中央線が動いたり動かなかったりする中、日野市の首都大学日野キャンパスにたどり着きました。新宿から中央線で約45分の豊田駅北口から京王バスで10分ほど。
周囲は大企業の工場だらけです。富士通、テイジン、東芝・・・駅から距離はそうありませんが、歩いたら迷うこと間違いなしです。




おお、あれが渡邉先生の研究室のある1号館(本館)ではないか。

のしのし前進します。
守衛さんには「渡邉ヒデトク先生はまだいらしてないですねえ」と言われますが、そんなことお構いなしでのしのし前進します。

ずらーっと並んだシステムデザイン学部の先生方の研究室を一つ一つ確認しながらのしのし前進。





ありました!渡邉先生の研究室です。
でも人の気配がしません。どうしたのか?
いぶかしく思いながらドアに近づくと、何やら投げやりな張り紙が。











張り紙曰く、「2号館地下の渡邉スタジオにいます」

はいはい、わかりました。のしのし来た道をすごすごと戻り、2号館へ向かいます。









ありました。2号館はこれです! ↓

なんだかカッコ良い建物です。のしのし歩き全開で、建物を目指します。

写真撮り忘れましたが、この建物のエレベーターのデザインがすごい。エレベーターが「壁」なのです。とても注意深い人でないとエレベーターとは気づきません。学生さんたちの動きを観察していて、「壁」がエレベーターであるとわかりました。

怪しい雰囲気の芸術系学生さんたち(ただし会話はまとも)に混じって地下へ降りていきます。


そしてたどり着きました。渡邊スタジオ。

まるで理系のラボのようです。
地下にありながら、地上の光を取り込んだ部屋です。
三角形系の形をしたとてもセンスを感じさせるスタジオです。

ずらーっと並んだコンピュータで、学生さんたちが思い思いに研究に励んでいます。

聞けば渡邉先生はほとんど自分の研究室には行かないで、このスタジオで学生さんたちと活動しているとのこと。学生たちの良きアニキなんですね。

この後、このスタジオに続々と学生さんや報道陣が集まって来て、「首都大白熱教室」が始まります。
下の写真の左が渡邉先生、向かって右に座っておられるのが、被爆者団体八六九(ハチロク)会事務局長の上田さんです。渡邉先生は八六九会の活動報告に目を通しています。

猛獣のように襲いかかってくる院生・学生さんたちとのバトルを前に、しばしくつろぎの時・・・・。

この日の白熱教室の議論の内容は、渡邉先生がこの後投稿してくださいます。
それを受けて、再度感想を書かせていただきます。(矢野一郎)

20110427

サンパウロ「FILE2011 Sao Paulo」にて展示されます

Nagasaki Archiveが,サンパウロで開催される「FILE 2011 - Electronic Language International Festival」にて展示されることになりました.

3年前,FILE2008 Sao Paulo開催時は現地を訪れ,シンポジウムに参加したことをおもいだします.熱いエネルギーに溢れた国でした.その後もFILE PRIX LUXコンペティションにTuvalu Visualization Projectがノミネートされるなど,何かとご縁があるフェスティバルです.


ナガサキに向けた平和のメッセージは,特に南米からおおく寄せられました.7月から8月に掛けての展示期間,より多数の現地のかたがたに鑑賞してもらえればと思います.ことしはちょっと行けません.(渡邉英徳)

20110425

八王子市原爆被爆者の会:定期総会に参加

去る4/24,八王子東急スクエアで開催された,八王子市原爆被爆者の会(八六九会)の定期総会に参加してきました.事務局長の上田紘治さんにお招きいただいたものです.


当初はナガサキアーカイブのデモンストレーションをおこない,証言収録に関するご協力のお願いをすることが目的でした.首都大のキャンパスがある南大沢にて上田さんとお目にかかり,今後の動きかたについてお打合せしたのが3月11日.その後京王線に乗り,初台駅を過ぎたところで震災が発生.地下鉄は止まり,まっくらなトンネルを歩いて新宿駅に辿りついたことを思いだします.

3月11日の前後で,私たちの周りの世界,私たち自身の生き方は一変しました.八六九会定期総会の議案書,活動報告には以下のように書かれています.
国と事業者が「安全」を強調し続けた原子力発電が,取り返しすることが出来ない,深刻で危機的な被害を広範囲に広げ続けています.しかも,この状態は,今後もかなりの長期間継続することでしょう.核の被害を,身を持って体験した私たちは,このような形で被曝者が増えることに,悔しさと怒りがこみ上げてきます.今,人類は核物質・原子力エネルギーの平和利用について,真剣に見直すことを教訓にすべきではないでしょうか.
まったく然りだとかんじます.定期総会では,Nagasaki Archiveはもちろん,東日本大震災後に制作した被災地三次元フォトオーバレイ,制作メンバーの高田健介君らが公開した計画停電MAP等をお見せし,傍観者ではなく当事者としてのアーカイブ作成の主旨をお話ししました.30分ほどのデモンストレーションでしたが,メンバーに対するあたたかい拍手と,証言収録へのご協力表明をいただきました.


今週27日には,矢野先生,そして八六九会の上田さんにもご参加いただく,ヒロシマ・アーカイブのキックオフミーティングが首都大で開かれます.メディア取材も入るなか,制作メンバーによる各自のアーカイブデザインに関するプレゼンテーションがおこなわれます.以前「デジタルアーカイブズのコンセプト」で書いたように,アーカイブを取り巻くコミュニティ形成がキーになります.ソーシャルメディアに慣れ親しんだ学生たちのアイデア,教員としても楽しみです.(渡邉英徳)

20110424

エジプト「The Egyptian Gazette」紙に記事が掲載されました

先日取材を受けた「核軍縮・非拡散」国際記者団の一員,エジプト「The Egyptian Gazette」紙のSalwa Samir記者による記事が,朝刊に掲載されたようです.一面使った大きな記事で「Japan will recover again」と銘打たれ,原爆と東日本大震災に関するエピソードが綴られています.

下記の画像をクリックするとPDFを閲覧できます.後半に私たちの仕事が登場.(渡邉英徳)

20110416

冨士本さん被爆証言動画収録(20110416)

2011年4月16日(土)15:00~17:00

在校生のお祖父様、冨士本君一さんの被爆証言の動画収録を行いました。場所は大手町の冨士本さんのご自宅リビング、インタビュアーは高2の藤居さんです。

冨士本さんは4才の時、似島(にのしま)で原爆の日を迎えました。陸軍の検疫所のあった似島には、多数の怪我人が運ばれてきました。
お寺の広場で小学生の子どもたちに混じって毎日ビー玉遊びをしていたという冨士本少年の生活は一変。お祖母様と共にバケツで水を運び、負傷者にひしゃくで水を飲ませて回った思い出話を聞かせてくださいました。
似島の安芸小富士の稜線が、燃えさかる広島の炎の光を反射して、幾晩も赤く染まっていたそうです。

奥様の絹江さん、お嬢さんも交えてお話を伺いましたが、次々に亡くなる方たちの亡骸を、馬の焼き場で焼いた光景を今でも思い出すというお話には、一同ショックを受けましたが、「いつもはもっと怖く話すんよ」とお嬢さんはおっしゃっていました。

似島のフィールドワークをしなければ、と思っていると、冨士本さんが良いガイドを紹介してくださるとのこと。さらに課題とヒントが与えられ、感謝です。似島フィールドワークは是非実現させたいと思います。

NHKの青木記者が取材してくださいました。(矢野一郎)

20110408

中国新聞2011年4月8日朝刊

今朝の中国新聞に「ヒロシマ・アーカイブ」の記事が掲載されました.Web版でも閲覧できます.以下に記事を引用します.現在,本紙を送っていただいているので,届き次第写真で紹介したいと思います.
広島の被爆者約100人の証言と被爆地点を紹介するインターネットサイト「ヒロシマ・アーカイブ」の7月公開を目指し、制作が進んでいる。首都大東京の渡邉英徳准教授(36)が、広島市中区の広島女学院高の生徒たちと連携して資料を収集。現市街地と被爆時の位置関係を重ね、惨禍を具体的にイメージできるようにする。
アーカイブには、ネット上の地図「グーグルアース」を使用。現在の広島市の地図に原爆投下前の町割りを重ね、被爆者の顔写真を被爆した場所に配置する。写真をクリックすると、証言の全文や平和への思いが表示される。証言は、女学院高同窓会所有の証言集や東京・八王子の被爆者の会の資料を使う。原爆資料館(広島市中区)からも地図などの提供を受ける。
3月27日には、同高の1年生約10人が同校で、廿日市在住の被爆者野村久子さん(82)にインタビューした。爆心地に近い十日市町で電車の中にいたが、奇跡的に助かった。その後、家族と再会するまでの経緯をカメラに収めた。
制作に至る経緯,関わっているメンバー,そして現在の状況まで丁寧に網羅された,誠実な記事です.執筆いただいた山本記者に感謝です.(渡邉英徳)

20110406

平和公園内碑巡り動画収録4回目(20110406)

2011年4月6日(水)
平和公園内碑巡り案内動画収録の第4日です。今回は下記のモニュメントを撮影してきました。

①供養塔

②原爆死没者慰霊碑

③峠三吉詩碑

最初は、前回同様、風の影響で音声に問題があったため供養塔で再度撮影をしてきました。

2度目の撮影だったので、前回よりもスムーズにしっかりと説明してくれました。


次は原爆死没者慰霊碑での撮影でした。ここは人も多く、撮影のタイミングが難しかったです。撮影後、たまたま慰霊碑付近にいたおじさんがさらに詳しく補足(?)してくれました。


次は峠三吉詩碑での撮影でした。

「初めてで緊張しました(本人談)」とのことですが、

そのような素振りも見せず、堂々と説明してくれました。

今日は、アーカイブのメンバーは2人だけでどうなることかと思いましたが、

碑巡り担当者の2人が手伝ってくれたので、スムーズに、撮影を終えることができました。

ありがとうございました!(谷田、山崎)

20110402

平和公園内碑巡り動画収録3回目(20110402)

2011年4月2日(土)

平和公園内碑巡り案内動画収録の第3日です。今回は下記のモニュメントを撮影してきました。

①平和公園全体

②レストハウス

③原爆ドーム

④相生橋


まず25日に収録した平和公園全体の動画が風の影響で問題があったので撮り直してきました。今日は風がなく絶好の収録日和でした。2回目ということもあり、今回は堂々とした説明をしてくれました。

次にレストハウスの説明の様子です。レストハウスの地下は古くて危険なので全員ヘルメットを着用しての撮影でした。

次に原爆ドームの説明です。周りに観光客がたくさんいたので、チョッピリ緊張した様子でしたが、カンペを見ずにスラスラと説明していました。

最後に相生橋です。道路沿いのせいで車や電車の騒音がひどかったので、撮影が大変でした。

上の写真は遅刻してきたにもかかわらず、疲れた顔をしてるIさんでした(^u^)

次回(6日)は遅刻しないようにね!(川島、室田、山崎、板垣)




20110401

上野さん・野村さん証言収録+渡邉先生試作公開(20110327)

2011年3月27日(日)13:00~21:00

■上野さんの被爆証言
13時より、上野照子さんの被爆証言を収録しました。上野さんは、日赤看護学校在学中に、学校で被爆されました。

被爆当日、上野さんのクラスは赤痢が流行って隔離されて建物の中にいたため、直接熱線や爆風の被害を受けることはありませんでしたが、周囲の被爆者の手当てや、亡くなった方を荼毘に付す作業に追われました。

「胴体や頭はなかなか焼けないので、指の骨を小さな袋に入れて遺族に渡すと喜んでもらえた。」

「原爆で丸焼きになっていたハトを食べたら美味しかった。」

などの体験を、目頭をぬぐいつつ語ってくださいましたが、考えてみたら、その体験をした当時の上野さんは、インタビュアーの川島さん(高2)と同い年だったのです!

■野村さんの被爆証言
14時30分からは、野村久子さんの被爆証言の収録です。野村さんは広島女学院の大先輩で、今回のアーカイブで卒業アルバムの人物照合などにも協力いただいています。

野村さんは空襲警報が解除されて十日市町で電車に乗った直後に被爆、きのこ雲の真下の真っ暗な世界を体験されました。

疎開先の安芸長束へたどりつかれるまでに出会った人たちや出来事を丁寧に語ってくださいましたが、それでも体験したことのほんの一部。野村さんが動員されていた先での戦時中の体験など、もっともっと詳しく伺いたいと思いました。

「インタビューが終わった後に本音が聞ける」の金言に従い、今回はインタビュー終了後の雑談も収録しました。上野さんも野村さんも同じ年齢で被爆されましたが、期せずしてお二人とも、「今の若い人は辛抱が足りない」とのお叱りの言葉を述べておられました。
上野さんへのインタビュアーの川島さん、野村さんへのインタビュアーの藤原さん(高1)やギャラリーは、これからものすごく辛抱して頑張って勉学などに励むはずです。

■中高生平和サミットでの渡邊先生
さて、その後100名以上の高校生が女学院に到着、場所を高校スタジオから高校チャペルへと移し、渡邊先生がヒロシマ・アーカイブのデモンストレーションをしてくださいました。



今回のデモンストレーション&レクチャは、3月11日に発生した東北関東大地震による災害に対する貢献も併せて発表していただき、きわめて感銘深いものがありました。首都大の学生さんたちが突貫工事で制作したコンテンツは、震災直後の救援活動や報道にも役立てられ、アーカイブの技術が「かつて・彼の地・今・ここ」を結び付けることで、多くの貢献をなしうるとを知りました。

ヒロシマ・アーカイブも、「1945年8月6日の出来事」で終わらせないための作業であることを、再認識させられました。

渡邊先生は、立て板に水、目まいを感じさせるほど、次々に濃い内容の情報を投げかけてくださいました。実に挑発的なレクチャであったと思います。沖縄尚学や盈進の生徒から、面白い質問が飛び出していました。広島女学院生には、これから質問力を磨くことを期待したいところです。

参加者で記念撮影をして、女学院生は家へ、他の参加者たちは宿舎へ向かいました。


■夜のお好み焼き
が、そうはなっていませんでした。生徒たちが「お好み村」や「お好み共和国」などに散らばっているとの情報が入りました。

夜の繁華街に生徒を放り出しておくわけにはいかず、渡邊先生と急きょ引率(乱入?)することにしました。

牡蠣にあたって回復途上にあった渡邊先生とは「豆腐料理でも食べに行こうか」と相談していましたが、お好み焼きになってしまいました。ゴメンナサイ。
でも、居合わせた遠来の先生方とお話しをすることができ、結果オーライということで・・・・

盛りだくさんな一日でした。おつかれさま。

なお、この日の様子は、RCCの藤原記者、NHKの青木記者、中国新聞の山本記者が取材してくださいました。(矢野一郎)