20110331

原爆投下前の広島の地図について(20110331)

2011年3月31日(木)

1945年8月6日以前の広島の地図について調査に行きました。同行したのは、アーカイブ制作メンバーの女学院高校1年生リーダーの室田さんです。


1,広島公文書館
まず、ANT-Hiroshimaの渡部朋子さんから紹介していただいて、広島公文書館を訪れました。
館長の高野さんと歴史資料係長の池本さんから、1945年以前の様々な地図を見せていただきましたが、建物の名前と形の両方が掲載されている正確な縮尺の地図が見つかりませんでした。

少しがっかりしながら、『広島被爆40年史 都市の復興』という出版物を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていたら、小さく掲載されている、とてもきちんとしていそうな地図が目にとまりました。池本さんに訊ねると、「それは国土地理院の2万5千分の1の地図ですね」とのこと。近くで入手できるのは本通りの南にある中国書店さんだとのこと。

親身にいろいろ教えてくださった高野館長さんでしたが、なんと明日から異動で、別の部署へ行ってしまわれるとのこと。残念ですが、池本さんが今後もサポートしてくださるそうです。


2,中国書店
本通りの南を自転車でうろうろしましたが、中国書店はなかなか見つかりませんでした。写真店で道を訊ねると、すぐ近くとのこと。確かにすぐ近くにありました。小さな地図専門店です。

店主の方に、「こんな地図を探しているのですが・・・」と切り出すと、「今の地図ならあるのだけど、古い地図は、国土地理院から取り寄せるしかないですよ」とのこと。
「え、東京ですよね?」と悲鳴をあげる私に、「いえいえ、広島の合同庁舎に中国地方測量部があるから、そちらへ行ってみたらどうですか」と親切に教えてくださいました。

しばらく店主とお話しをしていて、ふと壁に貼ってある1945年の広島を鳥瞰した写真が目にとまりました。
「これは1枚の写真ですか」と見入る私に、「ほら、こういう航空写真を上手に加工してつなぎ合わせたものです」とファイルを取り出して、多数の航空写真を見せてくれました。米軍が広島上空から撮影した写真で、それぞれの撮影地点の記録もついています。
うーん、見事なものだ。Googleの写真みたいだ。
この写真はいろいろ使えそうだ思い、「この写真は出版されていないのですか」と聞くと、「実はこれも国土地理院にあるんですよ」と教えてくださいました。
もう、これは中国地方測量部へ行くしかないでしょう。

店主さんと話している最中に、公文書館の高野さんから電話が入りました。「広島市文化振興課に良い地図があるようだから、そちらからも連絡が入ります」とのこと。ありがとうございます!


3,国土地理院中国地方測量部
とりあえず、合同庁舎2号館7階の中国地方測量部へ行きます。
調査役の竹崎さんと専門職の若山さんが応対してくださいました。コンピュータで「1945年8月6日以前の地図で、なるべく新しいもの、建物の形が記録されている地図」という条件で、地図を探してもらいました。

わかったことは、

●この条件に合う地図は、昭和7年測図2万5千分の1の地図
●昭和7年測図の地図は、大正14年測図の地図からほとんど変更されていない
●昭和7年測図の地図は、宇品や江波などを白くしてあり、情報量が減じている
●昭和7年以降、広島が軍都でもあったことから、地図は作られていない

以上から、1945年8月5日に最も近い地図は大正14年の地図、ということになります。リスト番号115-10-2-2の地図を、東京かつくばの国土地理院から取り寄せることにしました。柾版というサイズで、500円です。

また、航空写真は1枚1,150円で、40枚ほど購入する必要があります。どちらも渡邊先生の方で購入手続きをしていただくことになりました。

まるで「わらしべ長者」のような調査に午後をつぶされた室田さんは、少しお疲れの様子でした。(矢野一郎)



20110325

東日本大震災・被災地写真のフォトオーバレイ(New York Times掲載)

現在,New York Timesにて「The Aftermath in Japan」と題した被災地写真特集が掲載されています.今回私たちは,日本国内の報道ではみられない強いメッセージを持つこれらの写真のうち,撮影場所が推定できるものについて,フォトオーバレイを作成しました


すべての写真は,写り込んでいる地形や道路,建物などを手がかりにして,Google Earthの三次元地形に重層しました.アイコンをダブルクリックすると,被災前の風景と被災後の写真が重なりあって表示されます.Nagasaki Archive,そしてHiroshima Archiveでも同様の作業でフォトオーバレイを作成していますが,非常に手間が掛かり,心理的な重圧もたいへん大きいものです.

27日に広島女学院高校にてデモ+レクチャをおこないますが,その際に震災復興支援コンテンツとともに紹介予定です.私たちは,66年前のできごと,そして今まさに起きているできごとを,時空間上で重ねあわせながらアーカイビングを進めています.

画像はすべてNYTサーバの元ファイルにハイパーリンクして表示しています.

こちらをご覧ください(Google Earthプラグインが必要です)


今後も,撮影位置がわかる写真については随時追加する予定です.チームメンバーがリアルタイムに遭遇した災害のアーカイブ作業は,ヒロシマ・アーカイブ作成に向け,おおきな糧となるはずです.(渡邉英徳)

平和公園内碑巡り動画収録2回目(20110325)

2011325(金)13:30~15:30
平和公園内碑巡り案内動画収録の第2日です。
今日は、①平和公園全体、②市立高女原爆慰霊碑、③韓国人慰霊碑
の3つのモニュメントの案内動画を収録しました。仲間の姿を収めるためにカメラを回すスタッフも、真剣そのものです。


2枚目の写真は、平和資料館本館真下での収録の様子です。ここから後ろには噴水、前方へは慰霊碑・原爆ドームを見通すことができます。少し高いところから収録の様子を撮影しましたが、左後方で妙な動きをしている人がいますね。

3枚目の写真は市立高女原爆慰霊碑です。亡くなった13才~17才の生徒と教師合わせて679人の名前が刻まれていますが、そのうち544人が1・2年生です。爆心地から500メートルのこのあたりに動員されていたのが、1・2年生だったからです。

アインシュタインの有名な公式は、原爆を表しています。この慰霊碑が建立された時は、連合軍のプレスコードがあり、「原子爆弾」という言葉の使用が禁止されていたからです。

次は、韓国人慰霊碑です。1910年の日韓併合以後、300万人とも言われる韓国朝鮮人が日本に連れてこられました。広島にいた多くの韓国朝鮮の人たちも被爆し、数万人が亡くなりました。亀の台座の上に背負われた形のこの慰霊碑は、もともと本川橋西詰め、つまり平和公園のすぐ外側にありましたが、1999年に公園内に移設されました。

亀の顔は、故郷の朝鮮半島の方向を向いています。
故国を思いながら亡くなった人たちのことを思うと、本当に申し訳ないと感じます。

もうすぐ4月だというのに、2月上旬並の気候とのこと。
「コートを着てこなかったの?」と生徒たちに問うと、
「先生、春休みにコートを着たら負けなんです!」との返答。
何に負けるんでしょうねぇ。
とにかく、寒い中での収録、お疲れ様です。
みんなで仲良く学校へ戻りましょう・・・・・・(矢野一郎)


20110324

平和公園内碑巡り動画収録1回目(20110324)

2011年3月24日(木)
平和公園内の各種モニュメント(碑)の案内動画の収録(第1回)を行いました。

1枚目の写真は供養塔です。ここには、身元不明の遺骨約7万柱、身元の判明している遺骨817柱が納骨されています。平和公園内で唯一遺骨の納められているモニュメントです。

2枚目は慈仙寺跡。数トンはあろうかという4段組みの大きな墓石がばらばらになっています。爆風で飛ばされたのです。1段目と2段目の間には石が挟まっていますが、これは爆風で浮いた2段目の墓石の下に、飛んできた小石が挟まったものです。

1段低くなっている地面が、元々の地面です。現在平和公園となっている地面はそこから40~50センチ高くなっていますが、これは廃墟となったこのあたりを盛り土した結果なのです。当然そこには収容しきれなかった遺骨の一部などが混ざっています。私たちは、遺骨の埋まっている地面を歩いているのです。

そして3枚目は、公園の外にある島病院、爆心地です。原爆はT字型になっている相生橋を目標として投下されましたが、風の影響などでこの病院の真上580メートルで爆発しました。病院の壁は厚さが1メートルもありましたが全壊し、入院患者やスタッフも全員亡くなりました。偶然外出していた院長は命をとりとめ、今も「島外科内科」として経営されています。

ここが爆心地であることは、広島市民も案外知りません。
今日は、3箇所だけの収録で、風が強かったためうまく音声が入っているか心許ないですが、3月25日、4月2日にも収録を予定しています。(矢野一郎)

20110321

(試作)被爆前後写真,軍都廣島史跡めぐりマッピング 20110321

広島平和記念資料館から提供された被爆前後の比較写真と,軍都廣島史跡めぐりで撮影されたGPS写真の実装をすすめています.現時点ではインターフェイスデザインは詰めておらず,まずは位置合わせと全体の構造の検討をおこなっている段階です.以下にスクリーンショットをご紹介します.

Webでの公開許可申請中につき,以下の被爆前後写真はモザイク処理を施したダミーです.掲載許可が得られ次第,正規の画像に差し替えます.左側が被爆前,右側が被爆直後です.焼失した広島城や,中島地区のようすが,21世紀の広島市街にオーバーラップします.


軍都廣島史跡めぐりについては,まずはPicasaからのkml書き出しを用いて,すべての写真を素でマッピングしました.ここから,必要な写真以外を間引いていく作業に入ります.当日の生徒たちの行動軌跡が可視化され,興味深いです.GPS付きハンディカムを用いた動画も撮影されていますので,バランスをみながら順次,実装していきます.


現在の課題は「被爆前の広島市街地図」の入手です.すべての資料マッピングの基盤となるデータなので,なんとか精度のたかいものを得られれば,とチームメンバーで模索中です.(渡邉英徳)

20110320

東京キックオフ&証言収録延期(20110319)

東北関東大震災の被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
広島女学院中高では、3月15日~18日にとりあえず募金活動を行い、90万円以上を集めました。新学期からも、継続して募金活動等を行っていく予定です。

さて、この度の震災の影響で、東京方面への生徒引率の出張はすべて中止または延期となりました。従って、3月24日に予定していた首都大学でのキックオフ、その日の片山さんの証言収録、25日の遣沢さん、27日の小川さん&水野さんの証言収録も、すべて延期となりました。

時間をかけて準備してきた収録が延期になるのは残念ですが、夏休みあたりに是非実現させたいと思います。関係各諸兄姉のご無事をお祈りいたします。(矢野一郎)

20110319

「核軍縮・不拡散」海外記者団の取材を受けました

外務省招聘による「核軍縮・不拡散」に関する外国人記者団の取材を,Nagasaki Archive発起人の鳥巣智行さんとともに受けました.会場は首都大学東京秋葉原サテライトキャンパスです.


取材に参加したのは,ポーランドのWojciech Lorenz氏,インドネシアのDahono Fitrianto氏,チリのCarolina Alvarez氏,エジプトのSalwa Samir氏ほか,世界中から招聘された総勢7名の記者です.

当初の予定では,Nagasaki Archive制作のきっかけから,Hiroshima Archiveの進捗状況についてお話しすることになっていました.しかし,急遽,首都大・渡邉英徳研究室メンバーによる東北地方太平洋沖地震を支援するコンテンツも紹介することにしました.

上記の記事に書いたように,チームメンバーのひとりは仙台で被災しています.また,余震が続き,放射能汚染のおそれがある関東地方で,予期せず,世界的な「被災者」となった日本人の私たちが,今後どう行動していくのか,という話題と,「後世に伝える」というアーカイブズのコンセプトに関する話題が,重ね合わさりながら進行しました.

以下,取材後に連続投稿した,私のツイートを転載します.
  • 今日の海外記者団の関心も通行実績情報マップ http://shinsai.mapping.jp/ に集まった。ちょうど新幹線の電柱が倒れた旨のツイートの側に、通行可能な道がある部分をデモしたところ、意義を分かってくださった。他のレイヤも、原則的には無数載せられると説明。

  • また、これはヒロシマ、ナガサキアーカイブと震災に関するサービスに共通して「Facebookとの連携予定は?」という質問も。Twitterが使われていない国の記者だと推察。

  • (質問したポーランドの記者も遠慮しつつ)今回の震災に関するアーカイブズも手掛けるのか、と聞かれた。既に「記録のコミュニティ」の醸成が始まりつつあると思うし、自分たちも力を注いでいくと応えた。

  • 特にポーランドの記者はすごく熱心で、ワルシャワ爆撃後を再現したムービーを見せてくれたり、ナガサキ、ヒロシマアーカイブへの改良アイデアを出してくれたりと、かなり踏み込んだ活動をするジャーナリストだとかんじた。

  • エジプトとポーランドの記者は、それぞれリアルタイム+66年の時を隔てて、僕らの仕事にシンパシーを感じてくれたように思う。もちろん他国も、悲劇を経験していない国など無いわけで、同情よりも「如何にして復興するか」「どう世界に伝えるか」という視点からの質問ばかり。大いに力付られた。

  • 「核の恐怖」を伝える記者団ツアーは長崎、広島を経てさいごが僕たち。若い世代が語り継ぐ、という優しいコンセプトのはずが、突如「被災者たちが如何に活動しているか」という熱いテーマになり、記者たちの意気込みもすごかった。海外紙に掲載次第、リストを送ってくれるそうです。楽しみです。
ポーランドのWojciech Lorenz氏は特に熱心で,ワルシャワ空爆後の再現映像「City of Ruins」を紹介してくれました.



「こういう立体的なアーカイブもつくってみては?」というご提案も.2時間ほどのインタビュー中,日本空襲デジタルアーカイブとの連携予定,「デジタルアーカイブズ」のコンセプトTuvalu Visualization Projectなどについても話しました.

(行為→記録→アーカイブ)+コミュニティ=アーカイブズ,というレコード・コンティニュアム・モデルの実践は,記者たちのなかにも強い共感を生んでいたようです.徐々にうねりが生じつつあるのを感じます.(渡邉英徳)

20110318

インタビュー収録の技術指導を受けました(201103)


2011年3月中旬

放課後にチャペルセンターで、NHK広島放送局制作部のカメラマン・小嶋一行さんより、アーカイブ制作メンバーの女学院生が、インタビューを撮影するための技術指導を受けました。

小嶋さんの教えは、どれも目から鱗がぽろぽろ落ちるような内容で、プロの方は本当にすごいなあ、と思わされました。

●インタビュアーの位置、
●カメラの位置、
●インタビューを受ける人の背景、
●エアコンなど暗騒音が意外と邪魔であること
●対象とのウォーミングアップの大切さ
●インタビューが終わった後に本音が聞ける

などを教えていただき、これまでのインタビューをすべて撮り直したいと思いました。しかし、どの方の収録も一期一会の一回勝負、そうはいきません。被爆者にインタビューをすることの責任をひしひしと感じました。

なお、小嶋一行さんは、ジュネーブ国際音楽コンクールで優勝したピアニスト荻原麻未さんのドキュメンタリー番組で、インタビューと撮影を担当した方です。(矢野一郎)



MSさん証言収録(20110313)

2011年3月13日(日)14:30~15:00

被爆者MSさんの被爆証言の動画収録を、広島女学院中高の第1AV教室で行いました。

4才の時、爆心地から1.2キロの地点の自宅で被爆されたMSさんは、この証言がご自分の被爆証言の「最初で最後である」とのことでした。お孫さんが広島女学院の生徒なので、この機会に証言を遺しておこうと思い立ち、ヒロシマ・アーカイブのためのインタビューに応じてくださいました。インタビュアーは女学院高校2年の谷田さんです。


戦後様々な差別を受けながら暮らしてこられたMSさんは、イニシャル表示・顔を写さないことを条件に、収録を許してくださったのです。
友人の中には「嫁に行くときの傷になる」ということで被爆者手帳も取得されず、よって今になって様々な後遺障害が出ても医療費の補助も受けられない方もいるそうです。
MSさんも、子どもさんを出産された時も、「子どもに障害があるのでは」と心配でたまらなかったとのこと。また、実際のお年よりも若く見えることで病院の看護士たちに「あの人本当に被爆者なん?」などとひそひそ指さされるなど、病院でさえいやな目にあってこられたそうです。
「核兵器を持つことについてどう思われますか」との質問に、「それは難しい質問ですね。日本も(核兵器を)持たないとやられますし・・・」とおっしゃっていました。
生涯で最初で最後の被爆証言を引き受けてくださったMSさん、ありがとうございました。私たちは、このような方の声を拾い上げていきます。(矢野一郎)

20110316

「軍都廣島史跡めぐり」動画収録(20110312)

2011年3月12日(土)

ヒロシマ・アーカイブのコーナーの1つ、「軍都廣島史跡めぐり」の動画収録を行いました。

ガイドは広島女学院中高社会科教諭の川田悟先生です。川田先生はこの史跡めぐりの草分けで、今まで数々の団体を案内してきました。
1枚目の写真は、宇品線宇品駅プラットホーム跡。ここから宇品港まで歩いて行って乗船した兵隊が戦地へ赴いたのです。まさにアジア侵略の出発地です。

2枚目の写真は、陸軍糧秣支しょう跡。かつてここで肉や魚の缶詰が製造され、戦地へ補給されたのです。
爆心地から3,200メートルのこの建物も、爆風によって窓ガラスが割れたり鉄骨が曲がったりしました。
今ではきれいに改装されて「郷土資料館」となっています。
上の写真は陸軍被服支しょう跡。
ここでは軍服・軍靴をはじめ手袋・外套にいたるまで、陸軍が使うあらゆる布製品を加工していました。
広大な敷地に今も大きなレンガ造りの建物が残っています。
爆心地から2,700メートルにあるこの建物も被害の痕跡を残しています。2階の鉄窓の方が1階のそれより激しく変形しているのがわかるでしょうか。

さて、ここからは午後の部。午前は市内南部の宇品から比治山へかけてのコースでしたが、午後は市内中心部へ戻ってきました。

まず、左の写真。現在では最大手コンビニエンスストアの店舗になっていますが、なんと、ここにかつて国会議事堂があったのです。
正式には、臨時帝国議会仮議事堂跡。
日清戦争の時、宇品港が兵站(へいたん)となった関係上、明治天皇は広島へ大本営を移しました。それに付随する形で、当時の帝国議会も広島へ引っ越してきたのです。翌年4月までの7ヶ月間、事実上広島が日本の首都としての機能を果たしていました。



左の写真は、第五師団地下通信司令部跡です。

爆心地から1,000メートル以内に集中していた軍司令部関係の施設は、ここを除いてすべて壊滅しましたが、半地下式の司令部通信室だけがかろうじて残りました。

この司令部通信室から「新型爆弾により広島全滅」の第一報を伝えたのは、当時14才で通信司令部に動員されていた比治山高等女学校の女学生岡ヨシエさんでした。
ちなみに、ミッションスクールである広島女学院の生徒は「スパイ学校の生徒」と言われていたので、軍部の重要な情報を扱う通信部などには配属されず、市内中心部で建物疎開作業などに従事していました。

次の写真は、大本営跡。
1894年6月に山陽鉄道が開通、その5年前には宇品の築港が完成していたため、広島は格好の派兵拠点となっていました。1894年8月1日に清国への宣戦布告、9月15日の「明治天皇行幸」とともに、政府・軍部の首脳が広島入りし、大本営が設置されたのです。
以後太平洋戦争に至るまで、広島は侵略の派兵基地としての機能を果たし続けます。

そして、川田先生がこの史跡めぐりの最後に必ず設定するのが、陸軍幼年学校門柱・碑です。
現在の中国放送のすぐ北側に保存されている門柱。
これは、将来エリート軍人としての地位が約束されていた13~14才の生徒を教育していた陸軍幼年学校のものです。この学校で学んでいた13・14才の子どもたちも当然全滅したのだろう、と皆さんは思われるでしょう。
違ったのです。
この学校に通っていたエリートたちは、学校ごと1945年春に疎開していため、少数の守備部隊以外は無事でした。

「エリートの命は守るために疎開させ、その他の同年代の生徒たちは市内で働かせる。命の価値に序列をつけるという、最も露骨な人権侵害を生むのが戦争なのです。」

そう語ってこの碑巡りを終えた川田先生の言葉の前に、一同は頭を垂れるしかありませんでした。(矢野一郎)

東日本大震災被害に関する支援コンテンツ #jishin

今回の震災で,首都大のヒロシマ・アーカイブ制作メンバーのうち一名が仙台で被災しましたが,無事が確認できました.余震や福島原発の事故でなおも予断を許さない状況ですが,在京メンバーは自宅や大学で,これまでのアーカイブ作成の経験を生かし,震災情報の伝達や復興支援のためのコンテンツ制作を行っています.以下に紹介します.

被災地三次元フォトオーバレイ
現在,New York Timesにて「The Aftermath in Japan」と題した被災地写真特集が掲載されています.今回私たちは,日本国内の報道ではみられない強いメッセージを持つこれらの写真のうち,撮影場所が推定できるものについて,フォトオーバレイを作成しました


すべての写真は,写り込んでいる地形や道路,建物などを手がかりにして,Google Earthの三次元地形に重層しました.アイコンをダブルクリックすると,被災前の風景と被災後の写真が重なりあって表示されます.画像はすべてNYTサーバの元ファイルにハイパーリンクして表示しています.こちらをご覧ください(Google Earthプラグインが必要です)


東京電力が施行中の「計画停電」のエリアを地図上に纏めたWebサイト「計画停電MAP」を,制作メンバーの高田健介君が,Nagasaki Archive制作メンバーの北原和也君らと協力して制作しました。

参考:Googleによる公式の計画停電MAPが公開されています(3/16追記)


(以下引用) 東京電力や各自治体のWebサイトでは,停電区域を地区名(日本語)でのみ紹介しているため,特に海外の方で今回被災した方にとっては非常に分かりづらいものとなっています。計画停電MAPは,停電時間を地図上に色の付いたアイコンで示す事により,視覚的に分かりやすいWebサイト作りを目指しました。いつも行く場所だけれど,リストと照合させて停電時間を調べるのが大変だという方にとっても,きっと調べやすいのではないかと考えています。今後施行方法の変更も十分に考えられるシステムですので,積極的に更新していく予定です。是非ご利用ください。(高田 健介)

東日本大震災:通行実績情報マッピング
このコンテンツでは,東北地方太平洋沖地震による被害地域の車両通行実績情報(日次更新)を,他のデータと重ね合わせて表示しています.車で走行可能な道と被害のようすを重層して把握することができます.


他のkmzデータを追加で重層表示することも可能です.データの掲載を希望されるかたはメールでご連絡ください.公開にあたり,@mapconcierge @tosseto @wata909各氏のご協力をいただきました. ありがとうございます.


「福島第一,第二原発からの距離」
Twitter上で集まった複数のユーザにご協力いただき,原発からの距離を把握できる簡潔なGoogleマイマップコンテンツを公開しています.避難,屋内退避のエリアを色つきで,50km,100km,200kmを線で表示しています.



#jishin ツイートマッピング:東北地方太平洋沖地震
東北地方太平洋沖地震の発生後,Twitter上では数多くの#jishinハッシュタグが付いたツイートが投稿されています.これらを自動収集し,マッピングするウェブサービス「#jishinツイートマッピング:東北地方太平洋沖地震」を公開しました.スマートフォンとPC表示に対応しています.


キーワード,ユーザ名,期間,件数等による絞り込み表示が可能です.詳細はこちらのヘルプファイルをご覧ください.

これだけの規模の災害はまさに未曽有のもので,復興に向けた道程は,相当に厳しいものになるはずです.我々も日々気を引き締めて「やれることをやる」ことに努めたいと思います.ご支援のほど,どうぞよろしくお願い致します.(渡邉英徳)

20110310

原爆ドームと「ストリートビューには映らないもの」

Nagasaki Archiveのスクリーンショット(写真:長崎原爆資料館所蔵)

本日より,Googleストリートビューで「原爆ドーム」が閲覧できるようになりました.また,平和記念公園もスペシャルコンテンツとして公開されています.以下は原爆ドームのストリートビュー.実際に操作可能です.


Google Japan Blog記事より:
今回の取組により、毎日、世界から数百万の利用があるストリートビューで、世界中のユーザーがいつでも、どこでも、原爆ドームの姿を見ることができるようになります。このストリートビューが、日本のみならず世界中の人々が少しでも広島について興味を持ち、原爆ドームさらには平和について考えるきっかけになればと考えています。
ストリートビューによって「いまの街のすがた」が収録され,世界のどこからでも閲覧できるようになることは,それ自体に大きな意義があります.とはいえ,ストリートビューだけを眺めて,離れた場所のことをすべて知ることができるわけではありません.私たちはこれまでに,ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクトアースダイバーマップBis大島プロジェクト,そしてNagasaki Archiveなどのプロジェクト群を通して「ストリートビューには映らないもの」を収集し,デジタル地球儀に重層して発信してきました.

Tuvalu Visualization Projectのスクリーンショット(写真:(上)遠藤秀一(下)首都大学東京・渡邉英徳研究室)

例えば,この記事の冒頭に掲載した長崎・山王神社の「一本足の鳥居」は現存していますが,1945年当時の風景は誰にもみることができません.また,海面上昇で沈みつつあると言われているツバルの,日々刻々と変化しつつある島の風景は,今のところストリートビューには映っていません.アースダイバーマップBisでは「人々の無意識に訴えかけるもの」を,大島プロジェクトでは「島の人々にしかみえない風景」を,それぞれ可視化してきました.

場所にともなう時空間に蓄積された記憶,何よりも市井の人々の日常や語ることばは,現時点でのストリートビューやGoogle Earthには映らず,検索エンジンで辿ることもできません.こうした情報が機械的に収集され,インターネット越しに閲覧できるようになるのは,ソーシャルメディアが普及しつつあるとはいえ,まだ少し先のことでしょう.いま,それを実現するためには,先日の記事「デジタルアーカイブのコンセプト」で書いたように,既存のアーカイブを重層することに加え,人々の活動と記憶のコミュニティ形成を通して収集し,アーカイビングしていく以外の方法はありません.

Hiroshima Archiveでは,インタビューと既存のアーカイブのサーベイ,記録,アーカイブ化,そしてコミュニティ形成を,インターフェイスデザインの検討と同時進行で進めています.サーバサイドのプログラミングを必要とする部分以外,kmlを用いたコンテンツ制作などの技術面は,それほど難易度が高くありません.しかも年々簡単になっています.どちらかと言うと,人々との協働を含む社会な側面,また,ユーザにわかりやすく情報を伝えるインターフェイスデザインに心を砕いているのが現状です.私たちの手法はアーカイブとともにメソッドとして公開し,世界中の人々が各々のテーマに沿った独自のアーカイブズを構築できる環境を提供していくつもりです.

(渡邉英徳)

20110309

首都大の制作チームメンバー決定

首都大の渡邉英徳研(ネットワークデザインスタジオ)の新年度顔合わせミーティングをおこない,ヒロシマ・アーカイブ制作に参加するメンバーを決めました.


以下の5名です.修士課程学生2名,学部生3名.
上の写真は先日の与論島GPSフィールドワーク時のもの.左が高田君と原田さん.あいにく私以外は顔が写っていませんが,追々紹介していきます.

高田君はアースダイバーマップBisYAMATO Earth,原田さんはツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト大島プロジェクトに参加した,修士課程の新二年生です.佐藤君,坪山君,山田君は新四年生で,昨年は渡邉の講義「ネットワークメディアアート演習」を受講していました.他にも,4月以降に大学院講義の「インダストリアルアートプロジェクト演習」を受講する院生が参加するかもしれません.

現時点で集まっている資料をもとに,24日のキックオフミーティング時に各自がアーカイブデザイン案を発表する予定です.基本的にはNagasaki Archiveの手法に倣うとしても,資料の内容や量がかなり異なること,また,TwitterやFacebook等のソーシャルメディアとの連携など,新たなアイデアが必要とされています.学生たちの新鮮な発想に期待です.

昨年の参加メンバーは,以下のNBC長崎放送の特集番組で紹介されているように,プロジェクトを通してさまざまな人々と出会い,経験を積んでいきました.プロジェクトで得たものは,彼らの卒業制作にも何らかのかたちで反映されているはずです.


24日のキックオフミーティングで発表された案については後日,このブログでも紹介予定です.(渡邉英徳)

20110308

同窓会幹事会での写真照合(20110308)

午前に広島女学院同窓会館で行われた幹事会が終わるのを待って、高等女学校51~55期生の卒業アルバムの写真照合を行っていただきました。高等女学校51期生が5年生だった1944年に、4・3・2・1年生と合本で卒業アルバムを作っています。戦争がどうなるかわからないので、あわてて5年分のアルバムを作ったのです。

ところが、慌てて作ったこのアルバムには個人写真はなく、集合写真、それも身長順に並んで撮ったものが各クラスごとにあるだけです。よって、『平和を祈る人たちへ』の投稿者とお名前と写真を照合する必要がありました。

本日、同窓会の重鎮・野村久子さんを中心に照合していただいたのですが、何せ67年前の写真、しかも原爆でご本人たち所有のアルバムが消失して以来、久しぶりにこのアルバムをご覧になったとかで、記憶をたどるのが難しかったようです。(因みに、野村さんは1945年8月3日にこのアルバムを友達の家で茄子を食べながら見た憶えがある、とおっしゃっていました。)

結果として、6人ほどのお名前が判明したにとどまりました。

残りの10数名分については、

①4月23日のホームカミングデーに出向いて、出席者に照合をお願いする
②アルバムのコピーをお送りして、ご自分の写真に印をつけて返送していただく

の手を使うしかなさそうです。

幹事会を終えたお姉様方は、「この前は中華へ行ったから、今日は何にしようか?」、「グランドタワーへ行こう」等と、お昼の相談を大声でされていました。今の女子高校生と全然変わらないなあ、と妙に感動しました。渡邊先生への資料引き渡しの期限が迫っているので焦りを感じますが、お年寄りたちの悠然とした態度に学ばなければ、と思いました。(矢野一郎)

「デジタルアーカイブズ」のコンセプト

今回の記事では,Nagasaki ArchiveとHiroshima Archiveを通底する「デジタルアーカイブズ」のコンセプトを,簡単に紹介したいと思います.近日中に,より詳細に記述した論文を公開予定です.


Nagasaki Archiveでは,もともと個別に存在していた以下の4つの既存のデジタルアーカイブを,デジタル地球儀で重層表示し,さらにTwitterを用いたコミュニティ生成をこころみています.
  1. 証言集「私の被爆ノート」
    長崎新聞編纂による被爆体験談と顔写真のデジタルアーカイブ.
  2. 長崎原爆資料館収蔵資料
    被爆風景写真のデジタルアーカイブ.
  3. GPS 写真集
    2006.06.18 に行われたGPS フィールドワークで収集された写真のデジタルアーカイブ.
  4. 1945 年当時の地図
    平和のアトリエ刊「写真物語あの日、広島と長崎で」(1994.07) 掲載の資料.
これらのデジタルアーカイブは貴重な資料であるとともに,3.以外はもっぱら,単独の展示施設等の資料のデジタル化と保管,その個別利用を前提にデザインされていたため,扱われている事象(長崎市への原爆投下)を,より多面的・総合的に理解するきっかけが生まれにくい,という弱点も持っていました.

私たちはこの弱点を補うために,アーカイブズ学の研究者,Sue McKemmishらが提唱する記憶保存のモデル「レコード・コンティニュアム・モデル」を参照しました.以下がそのモデルです.

(出典:日外アソシエーツ「入門・アーカイブズの世界」記録管理学会・日本アーカイブズ学会 共編)

このモデルは,時間的空間的な制約に縛られず,個人や組織の活動範囲をこえた,永続的な記録の運用を行うためのものとして提唱されています.図の次元1~ 3において,個人による個別の行為が記録され,さらに組織化されてアーカイブが構築されます.次元4は社会における集合的記憶を供給するための枠組みとして定義されており,「記録のコミュニティ」形成の次元です.これらの次元は相互参照しながら同時進行します.

次元4は「コミュニティ内において,人や組織間の行為や相互作用の多層的な積み重ねによって生み出される,あらゆる形態の記録の集合体」であり,複数のアーカイブ群と,それに関わるコミュニティを包含しています.この次元において,個別に存在していた複数のアーカイブ群を相互に関連付けて俯瞰的に閲覧することが可能となり,扱われている事象に対する多面的・総合的な理解が促される,とされています.

私たちはこのモデルを援用し,次元4に相当する新たな情報アーキテクチャを「デジタルアーカイブズ」と定義しました.具体的には,複数のデジタルアーカイブを統合し,さらにそれを包含するコミュニティの形成をおこなっています.以下はNagasaki Archiveの説明ムービーです.地図,被爆者体験談,写真,そしてTwitter上のやり取りがすべてGoogle Earthにマッピングされています.



デジタル地球儀上に重層表示することで,巨視的~微視的な情報閲覧をおこなうことができ,個別に存在していた資料どうしの,時空間上の関連性を把握することができます.さらに,コミュニティに寄せられたメッセージを閲覧したり,ユーザ同士でコミュニケーションを行うことで,長崎原爆に関する多面的・総合的な理解を促すことを志向しています.

Hiroshima Archiveの制作においては,Web公開許諾を得た被爆体験談のデジタルアーカイブが存在しなかったために,被爆60周年記念証言集「平和を祈る人たちへ」をはじめとする文献のデジタルデータ化と,矢野一郎先生の記事にあるように,広島女学院高校の生徒たちによるビデオインタビューがおこなわれています.その他,さまざまな個人・団体とのコラボレーションも進行しています.こういった一連の活動は,前述したレコード・コンティニュアム・モデルにおける「記憶のコミュニティ」形成の一翼を担っています.

写真資料については,広島平和記念資料館収蔵「平和データベース」における,緑色のカテゴリに収められているものを用います.さらに,デジタルコミュニティ形成にはTwitter,Facebookをはじめとするソーシャルメディアを活用する予定です.

3月をもって資料収集のフェーズは一区切りとなり,アーカイブズの設計と制作がスタートします.(渡邉英徳)

20110307

「1日だけの女学院生」取材予定(20110307)

65年前にこんなことがありました。

当時専門部のなかった小倉の西南女学院から、専門部のあった広島女学院へ転校してくる生徒が毎年いました。その中で、1945年8月5日に転校してきた生徒もいました。あるいは、春に西南女学院より転校済みであっても、勤労奉仕などでこの年の8月6日にはじめて広島女学院に登校した生徒がいました。

そして被爆。

そんな過酷な運命を背負った方のうち、3名の方の所在が判明しています。現在世田谷区在住の小川美佐子さん、藤沢市在住の遣沢勝美さん、そして宝塚市在住の茂木正子さんです。また、小川さんが被爆者手帳を取得する際に証人となられた水野潔子さん(武蔵野市在住)という方が、当時のことをとても鮮明に記憶しておられます。

このうち小川さんと遣沢さん、そして水野さんへのインタビューが実現することになりました。3月25日には遣沢さんのお宅へ伺い、現役の広島女学院生がインタビューします。そして、26日には小川さんのお宅で、小川さんと水野さんへのインタビューを、やはり現役広島女学院生が行い、それをビデオ収録します。さらに、宝塚在住の茂木さんへのインタビューも実現させて、「1日だけの女学院生」という記録映像として遺したいと思います。

この取材の交渉をしている時も、小川さんや水野さんのとても親身な協力をいただきました。水野さんは結婚式出席を取りやめてまで、小川さんのお宅へ駆けつけてくださいます。小川さんとの再会を楽しみにされているようです。皆さん広島女学院を卒業することはなかった方ですが、それでも不思議と広島女学院生に感じるたくましさと親しみを覚えます。取材を続ける中で、すばらしい方たちとの出会いが与えられ、これこそ「新たなコミュニティの生成」というアーカイブ精神の実現だな、と感謝しています。

なお、この取材の様子とその成果は、ヒロシマ・アーカイブでも独立した項目として扱うと同時に、他の被爆者の証言と同じ様に収蔵される予定です。(矢野一郎)

20110306

日本バプテスト広島キリスト教会(20110306)

日本バプテスト広島キリスト教会の被爆証言集『語り継ぐ』を、我々のアーカイブに収蔵させていただく件で、この証言集に証言を寄せておられる方々お願いしに行ってきました。承諾してくださったのは、証言者10人中6人で、2人は交渉継続中です。他の2人は「あれは自分が書いた文ではないので」、「ピースボートなどでさんざん証言したからもういい」などの理由でお断りになりました。

今回教会を伺う前に、渡邊先生の作られた企画書をあらかじめお送りして、播磨牧師や証言集の責任者塩山さんに見ていただきました。また、「ナガサキ・アーカイブをご覧になったらイメージがつかめると思います」と申しておきました。そして、今日お願いに伺ってわかったことがいくつかあります。

まず、ナガサキ・アーカイブの証言を見て「自分の証言はこのように要点だけにまとめられてしまうのだ」と思われた方が何人もおられたことです。つまり、「要約されるくらいなら載せないでほしい」ということを言われたのです。それに対しては「ナガサキ・アーカイブは長崎新聞社の証言を使ったので要約されているように見えるのです。ヒロシマ・アーカイブでは、証言者のお言葉は一言一句省略しないで収蔵します。そもそも被爆者の証言に省略できる言葉はありません」とお答えしました。

第二は、英語化されることをとても強く願っておられるということです。これは何としても達成しなければならないでしょう。10人中お二人は広島女学院の卒業生で、英語がご堪能なようです。「誰かが英語化してくれて世界に自分たちの証言が発信されるなら、是非協力したい」とおっしゃってくださいました。

第三に、今まで海外へ向けて被爆証言をされた方は、ある意味「もうこりごりだ」と思っておられることです。細川浩史さんも「もう二度とヨーロッパへは行きたくない」とおっしゃっていましたが、世界各国で証言をしても、その内容を必ずしも素直に受け取ってもらえない、あるいは「原爆投下は仕方なかったのだ」という反応に出会い、疲れ果てておられる方も多いということです。

そして第四に、被爆された方で怪我や火傷を負っていない方、後遺障害のない方は、健康を損なわれた方に対して負い目を感じておられることです。交渉継続中のお二人がそれです。「自分はたまたま建物の中にいて、怪我もなかった。こんな自分の証言は載せないでほしい」とおっしゃるのです。こう言われた方は、今までにもおられました。それに対しては、「被爆証言は、決して怪我自慢ではない。ご自分が見たり聞いたりしたことを伝えてほしいのだ」ということを根気強く伝えなければならないでしょう。

たとえば、三次の近くであの瞬間を迎えた方は「今のは地震だったのかと思った」と証言されています。三次は広島から50キロ以上離れており、そんな遠くでも衝撃があったということを伝えるという意味で、この証言はとても貴重です。このような証言もたくさん集めたいと思います。我々は、怪我がなかったがゆえに語ってこられなかった方々の「声なき声」を追い求めていきます。

承諾いただいた方々には、「4月に写真を撮らせていただきます」とお願いしておきました。粟根さんにお願いして、4月どこかのの日曜日に撮影の日を設定しましょう。

ご協力いただいた播磨先生、塩山さん、永井先生と奥様に感謝いたします。
(帰りに雨に降られ、ずぶぬれになって「もうこりごりだ」と思ってしまった矢野一郎でした)

20110304

進捗状況:海外記者団取材、首都大チームキックオフ

現在、アーカイブ作成に向け、資料の収集と整理が行われています。
  • 被爆者の証言に関しては「平和を祈る人たちへ」に収録されたものを利用することになりました。マッピングに用いるために、広島女学院の卒業アルバムに掲載された顔写真との照合がすすめられています。各証言の長さはかなりのもので、8/6前後の行動軌跡も綴られており、Google Earth上のルートで表示できるかもしれません。

  • 1945年当時の地図など、図版資料に関しては石堂めぐむさんと広島コンピュータ専門学校の生徒さんたちによって整理と一覧化がすすめられています。揃い次第、広島平和記念資料館に申請し、マッピングをスタートする予定です。
そして以下は3月の予定です。Nagasaki Archiveに対する海外記者団取材など、かなり立てこんできました。私も3/27は広島女学院へ向かいます。4月からは本格的な制作がスタートします。
  • 3/19 海外プレス(十カ国)による取材
    南アフリカ、インドネシア、チリ、アラブ首長国連邦、トルコ、メキシコ、ポーランド、モンゴル、エジプト、リベリアからの外務省招聘記者団に「Nagasaki Archive」および「Hiroshima Archive」に関して取材を受けます。私と鳥巣智行さんが応対。TV取材予定が入っています。

  • 3/24 首都大チームキックオフミーティング
    首都大の制作チーム(新M2,M1,B4で構成)のキックオフミーティング。学生各自がアーカイブデザインのアイデアを持ち寄る予定。石堂めぐむさん、矢野一郎さん、も参加。また「日本空襲デジタルアーカイブ」設立者のMr.Bret Fiskと、Nagasaki Archive発起人の鳥巣智行さん、大瀬良亮さんもご参加予定です。TV取材予定が入っています。

  • 被爆者インタビュー収録
    片山昇さんへのビデオインタビューをご自宅でおこなう予定です。広島女学院高校の生徒たちによるもの。なお、このインタビューは、Nagasaki Archiveをご覧になられた、代々木病院の石井先生のご協力を得て実現したものです。御礼申し上げます。

  • 3/25-6 小川美佐子さん,水野さん(交渉中),遣沢勝美さんのインタビュー収録
    小川さんと遣沢さんは原爆投下前日に広島女学院高校に転校したかた、水野さんはそのお二人のことを証言し、被爆者手帳取得に助力したかた。小川さん、遣沢さんは、原爆投下前日に広島女学院に転校、翌日被爆し、命からがら北九州へ戻られた、という経歴をお持ちの「1日だけの女学院生」です。アーカイブではその足跡を可視化したいと考えています.

  • 3/27 被爆者インタビュー収録、Nagasaki Archiveデモ
    上野照子さん、野村久子さんへのビデオインタビュー。広島女学院にて。また「高校生平和サミット」(沖縄尚学高校、盈進中学・高校、明徳高校、広島女学院高校)の参加者対象に、Nagasaki Archiveのデモをおこないます。TV取材予定が入っています。
(渡邉英徳)