20110316

「軍都廣島史跡めぐり」動画収録(20110312)

2011年3月12日(土)

ヒロシマ・アーカイブのコーナーの1つ、「軍都廣島史跡めぐり」の動画収録を行いました。

ガイドは広島女学院中高社会科教諭の川田悟先生です。川田先生はこの史跡めぐりの草分けで、今まで数々の団体を案内してきました。
1枚目の写真は、宇品線宇品駅プラットホーム跡。ここから宇品港まで歩いて行って乗船した兵隊が戦地へ赴いたのです。まさにアジア侵略の出発地です。

2枚目の写真は、陸軍糧秣支しょう跡。かつてここで肉や魚の缶詰が製造され、戦地へ補給されたのです。
爆心地から3,200メートルのこの建物も、爆風によって窓ガラスが割れたり鉄骨が曲がったりしました。
今ではきれいに改装されて「郷土資料館」となっています。
上の写真は陸軍被服支しょう跡。
ここでは軍服・軍靴をはじめ手袋・外套にいたるまで、陸軍が使うあらゆる布製品を加工していました。
広大な敷地に今も大きなレンガ造りの建物が残っています。
爆心地から2,700メートルにあるこの建物も被害の痕跡を残しています。2階の鉄窓の方が1階のそれより激しく変形しているのがわかるでしょうか。

さて、ここからは午後の部。午前は市内南部の宇品から比治山へかけてのコースでしたが、午後は市内中心部へ戻ってきました。

まず、左の写真。現在では最大手コンビニエンスストアの店舗になっていますが、なんと、ここにかつて国会議事堂があったのです。
正式には、臨時帝国議会仮議事堂跡。
日清戦争の時、宇品港が兵站(へいたん)となった関係上、明治天皇は広島へ大本営を移しました。それに付随する形で、当時の帝国議会も広島へ引っ越してきたのです。翌年4月までの7ヶ月間、事実上広島が日本の首都としての機能を果たしていました。



左の写真は、第五師団地下通信司令部跡です。

爆心地から1,000メートル以内に集中していた軍司令部関係の施設は、ここを除いてすべて壊滅しましたが、半地下式の司令部通信室だけがかろうじて残りました。

この司令部通信室から「新型爆弾により広島全滅」の第一報を伝えたのは、当時14才で通信司令部に動員されていた比治山高等女学校の女学生岡ヨシエさんでした。
ちなみに、ミッションスクールである広島女学院の生徒は「スパイ学校の生徒」と言われていたので、軍部の重要な情報を扱う通信部などには配属されず、市内中心部で建物疎開作業などに従事していました。

次の写真は、大本営跡。
1894年6月に山陽鉄道が開通、その5年前には宇品の築港が完成していたため、広島は格好の派兵拠点となっていました。1894年8月1日に清国への宣戦布告、9月15日の「明治天皇行幸」とともに、政府・軍部の首脳が広島入りし、大本営が設置されたのです。
以後太平洋戦争に至るまで、広島は侵略の派兵基地としての機能を果たし続けます。

そして、川田先生がこの史跡めぐりの最後に必ず設定するのが、陸軍幼年学校門柱・碑です。
現在の中国放送のすぐ北側に保存されている門柱。
これは、将来エリート軍人としての地位が約束されていた13~14才の生徒を教育していた陸軍幼年学校のものです。この学校で学んでいた13・14才の子どもたちも当然全滅したのだろう、と皆さんは思われるでしょう。
違ったのです。
この学校に通っていたエリートたちは、学校ごと1945年春に疎開していため、少数の守備部隊以外は無事でした。

「エリートの命は守るために疎開させ、その他の同年代の生徒たちは市内で働かせる。命の価値に序列をつけるという、最も露骨な人権侵害を生むのが戦争なのです。」

そう語ってこの碑巡りを終えた川田先生の言葉の前に、一同は頭を垂れるしかありませんでした。(矢野一郎)

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